秒速5センチメートルに見る「存在したかもしれないと願っていた自分」


 秒速5センチメートルを見たので悲鳴あげる(ネタバレ) - G.A.W.


 この記事を読んでも分かる様な分からない様な気分だったので、とりあえず作品を見直してみた。

 まず何と言うか、あの程度の悲劇性それ自体は、それほど遠いものじゃないと俺は思う。世の中には伝聞だけでは信じられない話が無闇に転がっているものだし、俺にしても、人に言えない過去の一つや二つは当たり前にあるわけで、それをドラマチックに見せる術があるなら人を泣かす事も出来るかもしれない。

 とは言え、それはあくまでも事実と言うか、事の起こりに限った話で、俺達個人個人の行動や顛末には別個の軸が存在する。少なくとも小学生や中学生の頃の俺には全うな判断力の欠片も無かったし、従って、その時期に抱えた問題というのはそれ以降もある種の幼さと共に胸の内で燻り続けた。頭の中ではまるで悲劇のヒロインだったが、実際にはただ子供でいる事に強く執着していた。

 だから俺はよく、ほんの少し大人ぶっている自分、同じ問題を抱えつつも少しは前に進みながら、それでいて同情される余地のある破滅的な自分というものを、何かに突き動かされる様に妄想していた。一言で言えば「構ってちゃん」だ。自分の非を呪う反面、怠惰を正当化するためのスケープゴートを頭の中に用意して、性善的な自分を信じていたわけだから。

 そして当然、そのイメージに引っ張られる様にして俺は自滅して殻に籠ったわけだけれど、その姿は中々無様で、潔さとは無縁にひたすらセンチメンタルで、手の付けようが無かった。過去を恐れて逃げたはいいが過去が何なのか分からずめったやたらと周囲が怖かった。俺にとって自滅とはつまり逃避であり、逃避とは即ち孤独であり、孤独は見栄を張る余地もなく惨めなものだった。

 それなのに何故、という部分が本題なんだろう。こう言うのも何だが、この作品の主人公は中々生真面目だ。現実的に見れば彼もまた落伍者で歪んだ性格の持ち主の一人だが、がむしゃらに走り続けて、人を遠ざけつつも繋がりは失わずに、後ろ髪を引かれたまま全てを投げ出してもまだ踏み出すその一歩にどこかしら希望を感じさせるその姿は俺みたいな人間とはまた別種の人間だし、そもそもそんな人間は居やしない。それは分かる。分かるけども、どこか近い様に思えて仕方がない。それはそうだ。彼はいつかの俺の妄想によく似ているし、あるいはその先をいっている気さえする。俺が挫折している間にもせっせと磨き上げられたこの妄想は最早英雄的と言ってよく、溢れ出る涙はやたらと心地いい。

 要するに、この妄想は俺にとって完全に過去のものというわけではなく、子供染みた悲鳴と歓喜が未だに鬩ぎあっているわけだ。目の前の問題なんか放り出して、駄々っ子してようじゃねえか、ええ?という具合に。

 反面、ラストシーンの、電車が通り過ぎる内に踏切から女性の姿が消えてくるりと踵を返し歩き出す主人公の姿は、実を言うとそんなに嫌いじゃない。それまでのシーンの一切は前述の妄想を刺激するお膳立てに過ぎないとしても、それを踏まえたあのシーンからは、色んなものに縛られたがる不自由な人生を歩んできて、これからもそんなには変わらないのだと意識しつつも、それでも歩いていけるという風な当たり前の自由が感じられて、変な話だけど、救われた気がしたから困る。まあ、もう一度見ればまた振り出しに戻るんだろうけどさ。