孤独の昼餉

 漫画「孤独のグルメ」のゴローみたいな事をしていた。
 時刻は11時半。そろそろ昼食の当てでも探さなければと考えつつ自転車にまたがったのはいいけれど、具体的に何が食べたいのかが思い浮かばない。仕方ない少し走りながら考えるかと普段行く事のない地域に足を伸ばし、意外といい道が見つかった事に気持ちよくなって大型河川の土手を無心に走っている内に、腹が減り始めている事に気付いた。
 時刻は12時半。もういい加減引き返そうと橋を渡って土手の対岸を来た方向に走る途中、道が行き止まりで大通りに復帰しなければならない丁度その地点で、黒い服を着た女性の姿が見えた。遠目に見えた時は「こんなところに珍しい」程度の感覚だったが、次第にそれ以上の謎が彼女の周辺を取り巻いている事に気付いた。何故なら、彼女は道の行き止まりに向かって歩いていたからだ。何かひらひらとした優雅な黒い服を着て、右手にはサングラスを持ち、背筋をピンと伸ばして、細身で四十代前後かと思われるその人は特に見晴らしのいいわけでもない河川敷の袋小路へと向かっていた。その歩みに迷いはなく、どこか誘われている様な、それでいて近付き難い雰囲気を醸していた。
 今思うと、彼女は行き止まりだと思われるそこに何があるのかと好奇心に押されて歩いていただけかもしれないが、馬鹿馬鹿しい事に、俺はそれを見て怖くなってしまったのだ。いつもより素早い動作で自転車から降りてそれを担ぐと、早足で階段を下りて、再び自転車に跨がり、彼女が振り向いたかどうかも確認しないまま走り出して大通りを目指した。我ながら臆病だなあと半ば呆れたが、行く手にはわりと急な坂道が続いており、フロントのギアを落としてせっせとペダルを回している内に彼女の事は頭から遠退き、俺の意識は再び空腹へと移っていく。
 腹が減った。猛烈に。そういう時は大抵、「ラーメン」という選択肢が早くに名乗りを上げる。豚骨、醤油、四川、つけ麺、様々な味が口の中で再現され、ほんのりと「今日はラーメンにするか」という気分にさせる。実際、外食のラーメンはここ数ヶ月食べていない。そういえば前々から気になっていた店があった事も思い出した。もう何を迷う必要がある?しかし一方で、ラーメンという食べ物はいつもある種の抵抗感を伴う。あんなに油ぎった食べ物を?折角運動したこの体に?そんな葛藤が生まれると、もうそれ自体に疲れてしまい、ラーメンへの欲求は次第に鳴りを潜めた。
 だが、あまり悠長な事も言ってはいられない。時刻は既に1時を回った。乾きと焦りがペダルを回す足を急かし、やがて一つの結論へと俺を導く。そうだ、天丼だ。天丼が食べたい。油という点ではラーメンと大差ないだろうと理性が囁く暇もなく俺の頭は天丼一色に染まり、それに釣られて胃が締め付けられた。もう一刻の猶予もない。とは言え、この近くに天丼の美味い店があったろうか?すぐには思い浮かばない。しかし焚き付けられた食欲が俺の遠い記憶を呼び覚ました。そう、確か、近くにそば屋があった。中学生くらいの頃、年末の年越しそばを食べる為に家族で入った店だ。十年近く、あるいはそれ以上に前の事なので味は覚えていないが、少なくとも不味かった記憶はない。よし、今日はそこにしよう。普段込み合う道が渋滞していない事に感謝しながら俺はその店の前に辿り着き、自転車を止めた。
 個人的な経験則として、そばや天丼が美味い店には共通点がいくつかある。まず第一に、店の入り口は寂れている。元々そういう風に設計したのではなく、年を経てそうなってしまった様な感じで、何かの陰にひっそりと建つその外観はぱっと見では営業しているのかしていないのか分からない。しかしその実、店に入ってみると意外と明るく広い。木目の壁や古びた机に飾り気は無いものの、きちんと手入れされているのがすぐに分かる。これが第二だ。そして第三には、お年寄りの客が多い事が挙げられる。がやがやと賑わっているわけではなく、一人ないし二人組のお年寄りで席はしっかりと埋まり、黙々と食べている。こういった条件を満たす店というのは、中々どうして外れがない。そして今回入った店も、期待通りこの条件を満たしていた。
 二時間走ったのだ。こんな時くらいは大盛りが食べたい。「天丼って大盛りに出来ます?」そう聞いた俺に対し、店員は「天丼大盛りね」と気前よく答えて姿を消した。あるかどうか訪ねただけなのだが、と一瞬手持ち無沙汰になったが、まあいいやと温いお茶をすする。そういう事も許せる雰囲気がこの店にはあった。
 やがて天丼とみそ汁の乗った善が運ばれて来たが、ここから先はあまり書く必要もないと俺は思う。美味い天丼を想像してみてほしい。そう、単なる天ぷらをご飯に乗せてタレをかけただけではなく、タレがきちんと染み渡り、天ぷらがトロトロになってるやつの事だ。それが想像出来たなら、迷う必要はない。あとはもう、その味を現実にするべく立ち上がるだけだ。


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